2つ目の話をします。言語化が下手なので上手く書ければ良いのですが。
昔から考えていたのですが、人って物事を判断する時に、自分が今まで見てきたもの、経験してきたもの、つまり自分で認識できる範囲をベースにしているんだろうなと思うわけです。
〇か×か
右か左か
合うか合わないか
正しいか正しくないか
生きていく上で毎日、数多くの「判断」をしているわけですが、その判断の根拠って自分が今まで得てきた知識や経験や感性の「中」で行われているんですよね。
当たり前の話ですかね。
人それぞれ、年齢も性別も経験値も日々の仕事も性格や感性も違うので、自分と全く同じ考え方をしている人と出会うことなんてできないと思うんです。
時には意見の違う人や、考え方の違う人と出会うこともあるでしょう。
そんな時、皆さんはどうしてますか?
私は大学受験の時に国語が苦手で。
文章と文章の間の行間を読むことがなかなかできませんでした。
大学受験って、思考の訓練だと思うんですよね。
ある事象を正面から見るだけではなく
横から見たらどう見えるのか
上から見たらどう見えるのか
裏から見たらどう見えるのか
色々な角度で見て物事を判断する思考の訓練だと思っていました。
それと同じで、
今までの自分の経験や知識で判断すれば、Aという判断になるけれども、もしかしたら別の見方をしたらBかもしれない。
とか
自分はAだと思うけど、彼はBだと言っている。何で彼はBだと思ったんだろう。
とか
自分の経験や知識の「外」にある世界がもしかしたらあるかもしれないと「想像」してみるのはとても大事なことなんじゃないかなと最近思うわけです。
自分の経験や知識に無いものを頭から否定して、受け入れないというのは非常にもったいないなと思うんですね。
私も52歳になって、人生の後半となりまして。様々経験も重ねていくと今まで見えなかったものが見えてきたりするもんで。そりゃあ年とれば知識も経験も増えますからね。
そうなると他の人の意見を見聞きしても、なんか判断が甘いなぁとか。仕事が甘いなぁとか。いろいろ目についちゃうこともあります。
そういうのって、世の中では老害とか言われるんだろうけど。
若い時は私も、自分が年取ったらああはならないようにしようと思ってきたんですけどね笑
それって周りを下に見ているということなのかもしれない。傲慢なんだろうか。
でも自分の経験や知識の方が、その人よりも多く高いよな。それなら自分の意見の方が正しいだろうとか。少し躊躇もあります。
いろいろと考えます。
そういう自分でも、例えば、ホリエモンさんとか前澤さんとかの知識や経験なんか足元にも及ばないし、まだまだ自分の知らない世界があるんだろうなと思います。
結局、上には上がいるので。自分の知識や経験は大切にしつつ、さらに上から勉強しようという姿勢は大事だなと思っているわけです。
自分の認識の外の世界を謙虚に認め、尊重し、一旦は受け入れて咀嚼する。
そんな余裕みたいなものが大事なんだろうなと最近、思っているわけです。
ここからは完全に蛇足です。
なんか偉そうなことを書いてますが、そんな私も、若いころはそんな考え方ができなかった人間です。
自分の意見が正しい。自分が一番だ。自分がやってきた成果だ。
そういうものに固執するあまり他人の振る舞いを認められなかった若い時代があります。
何でこの人はこういうことを言うんだろう。そこに何か自分が気づいていない意図があるのかもしれないとか、そう考える精神的な余裕はその頃は無かったですね。
それが年齢によるものなのか、当時は心も体もお財布もボロボロでしたので仕方なかったのかもしれませんが。
2008年、ゼルビアを辞める時、もし今の自分だったら辞めなかったかもしれないなと思うこともあります。もっと上手くやれたかなと。。
あの時の選択が間違っていなかったことは今のゼルビアの状況が証明してくれていると信じていますが。
まあ、何が言いたいかというと、私もおじさんになったということですね笑
了