回想録・思い出

転機 その2

こんにちは、komochuです。

上の写真は2001年?の1月町田市のサッカーフェスティバルで私が掲出した横断幕になります。若かれし頃の私が写ってますね。若いなぁ 汗

ASフリューゲルスの誘致が頓挫した後、町田サッカー協会では他のクラブの誘致の可能性を探りながらも、せっかく盛り上がった機運を落とさないように、毎年お正月に野津田で町田出身のJリーガーを呼んでお祭りをしていました。

毎年の恒例行事でパンフレットを作成し、そこに広告を載せるということで運営費を集め、それで選手に交通費を払って参加してもらっていました。子供たち向けにサイン会をしたり、出店がでたり当時、町田のサッカー界では唯一?町田がサッカー所だと感じられるイベントでした。(いまでもやってるのかな?)

しかし正直なところ、イベントをやるのが目的で、「町田にJクラブを」という機運は全くと言って良いほど無くなってしまったと思います。そんな時期でした。

少し年代が遡ります。

私は1996年に大学を卒業し1年遅れて97年に初めて会社員生活をスタートさせます。

社会人になって、何か勉強するスキルをつけようと、当時、普及しはじめていたインターネットでホームページを作るhtmlという言語を勉強することを決めます。丁度98年フランスワールドカップの年でした。

ホームページを運営するのに、題材を決めなくてはいけません。それを小学校、中学校と部活でやったサッカーにしようと、どこか応援するクラブや選手を決めないといけない、、、と悩んだ結果、96年アトランタ五輪の「マイアミの軌跡」を思い出します。

あの時のDFがめっちゃ良かったな、、、誰だっけな。。。と調べて出てきたのが、服部、田中誠、鈴木秀人でした。そして私はジュビロ磐田を応援することに決め、鈴木秀人選手を応援するサイトを立ち上げることにしました。

98年から2001年まで4年間ジュビロ磐田のサポーターとして活動しましたが、同じくらいのタイミングで町田にJリーグを目指すクラブがあることを知ります。正確に言うと目指してはいなかったのですが(笑)、私が勘違いしてそう思っただけなのですが、いろいろと調べてみると少しだけ情報があり、、、とその1に書いてある展開になります。話が前後してすいません。

当時はジュビロ黄金時代で、そりゃ強かったし楽しかったです。しかし心の中で100%の気持ちを持って応援できない自分がいました。下手くそだったけど、これでもサッカー所町田出身、日本一のサッカー所の自負と誇りが当時の私にもあったんでしょう。

何故、町田にJリーグクラブが無いんだ!

そういう思いが日に日に大きくなっていきました。

そんな状況の時の2001年のお正月に掲出したのがこの横断幕です。

後から聞いた話では、守屋先生がこの横断幕を見て、

「こういう気持ちのある人がまだいるんだ。もう一度がんばってみるか」と思われたそうで、そこから2002年シーズンの守屋先生が監督、私が事務局長という体制がスタートすることになります。

(続く)