回想録・思い出

転機 その7

こんばんは、komochuです。

当時、東京都1部リーグに所属していたゼルビアですが、関東2部に昇格する為にはまずリーグで3位以内に入る必要がありました。

3位以内に入ると関東社会人大会に出場、各都道府県1部リーグの上位合計16チームが集まってトーナメントで試合をします。

負けたら終わりの一発勝負。しかも4日連続で試合をします。

関東社会人大会の優勝、準優勝チームが関東2部へ昇格します。

とても狭き門でした。

 

2002年当時の状況について書きたいと思います。

既にJリーグ開幕当時の盛り上がりは無くなり、1998年に横浜フリューゲルスがマリノスと合併して消滅するなど暗い時期でした。

フリューゲルスのサポーター有志が立ち上げた横浜FCが2001年にJリーグに入会、全国に「あ、Jリーグクラブって大企業じゃなくても作れるんだ」という認識が広がったと思います。

先陣を切ったのが、「ザスパ草津」で2002年には植木さんが監督になり、小島さんや奥野さんが加入、選手が働きながらサッカーをするというモデルを確立します。

どのクラブがこの時点で「Jリーグを目指す」と公言していたのかは忘れてしまいましたが、すでにいくつかのチームが表明していたんじゃなかったかな。

そんなクラブのことを当時、2ちゃんねるで嘲笑を込めて?「今時Jリーグを目指す物好きクラブ」というスレッドが立ってマイナーサッカー好きの方々が書き込んでいました。

当時のJ2は12クラブ。リーグは多くても18、最大で20が限度でしょう。

つまりJリーグに入会できるクラブは、その時点で6~8という状況でした。

この時点でJリーグを表明はしていなかったクラブも多いと思いますが、2002年当時、JFLには徳島ヴォルディス(大塚製薬)、愛媛FC、ロアッソ熊本(アルエット熊本)、栃木SC、カターレ富山(YKK)、ガイナーレ鳥取(SC鳥取)が既に所属しており、また各地域リーグにはギラヴァンツ北九州(ニューウェーブ北九州)、松本山雅などもおり、都道府県1部リーグ所属のゼルビアは、相当頑張ってギリギリ入会枠に入れるかどうか、という状況でした。