こんばんわ、komochuです。
当時のゼルビアは、東京都1部昇格時のような勢いもなく、主力選手たちは20代後半以上となり、皆、社会人で平日は仕事があってなかなか練習もできず、新加入の選手はおらず、、、という状況でした。
名目上、K田さんが監督ということになっていましたが、実質はキャプテンであるO本さんがスタメンを決め、という感じで試合当日も「おー、11人ちゃんと集まった!」というような感じでした。
ほとんどの選手が町田でサッカーを続けてきた町田っ子だったと思います。仲が良いサッカーサークルという雰囲気でしたが、キャプテンであるOさんからも、チームとして1部でやっていくのは「もう限界」という話があり、守屋先生なんとかしてよ、という声が選手の方からも上がっていました。2000年の軌跡の東京都1部残留の後です。
そんな状況でしたので、前回のように大人が勝手に回りで「Jリーグ」と騒いでいるという感じではなく、ある程度すんなりと新チームへの移行ができたような記憶があります。
ベテランの選手はチームを退団していく選手もいましたが、その時の印象は「肩の荷が下りた」というような印象でした。東京都1部というのはアマチュアで楽しくサッカーをやるという意味ではレベルが高すぎたのかもしれません。チームの運営に選手に過度の負担がかかっていたのです。
守屋先生を中心に、新チームの編成を行いました。先生の方針はまずちゃんと練習する、練習できる選手を集めるということで、先生のFC町田での教え子で今、大学生になって大学の体育会でサッカーをやっていない選手に声をかけ集めました。
ちょうど春から大学1年生になった年代です。
5、6人のFC町田のOB選手が集まり、一気にチームは若返ります。ついこの間まで高校選手権を目指してサッカー部で鍛えていた子たちですし、何より若くて元気です(笑)
当時、インターネットが普及してきた時期で、ゼルビアも私がホームページを作って情報を載せていました。近隣の高体連のチームへセレクションの案内を郵送したりしながら、「町田にこんなチームがある」という認知度が少しずつですが広がっていったと思います。新チームに向けてかなりの選手が入団しました。
練習は小山グランドで週2回 夜19時からだったかな?守屋先生を中心に開始。
当時の東京都1部リーグには、日立ビルシステムと東芝府中という2つの強豪企業チームがいて、練習環境も素晴らしくこの2チームを倒さないと関東リーグには昇格できないという状況でしたが、かなりハードルは高かったです。その他にも警視庁がいたり、大きな組織のチームがいて、組織のないゼルビアは非常に厳しい状況に置かれていました。
続く