いよいよ10月になりました。
月曜日は、なんと、仕事が終わったのが夜中の1時半。
会社は青山にあるのですが、会社がお金を出してくれるというので、プライベートも含めて、生まれて初めて都内から町田までタクシーで帰りました。
お金持ちの社長気分を満喫しました。終電無くなるまでお酒飲むこともないし、都内で遊ぶこともないもんで。
品行方正な私です。(笑)
町田まで高速使って13000円で帰れました。思ったより安かった。2万くらいかかるかと思った。。。
さて今日は、ゼルビアを語る上で避けては通れない「町田にプロサッカークラブを誘致する会」について、書きたいと思います。
公式サイトにも記載がある話ですので、皆さん、ご存知の部分も多いと思いますが。
91年に、Jリーグに参加する10団体が発表されました。
その中で、後の横浜フリューゲルスとなる、全日空も含まれていました。
全日空は、ASフリューゲルスという名前で活動を開始。
ASとは、ANAと佐藤工業のSを合わせたものです。
ホームタウンを横浜市と九州ということで活動をしていましたが、Jリーグの方から、早くホームタウンを決定するように指示されていました。
そこで、全日空が目をつけたのが「町田」でした。。。
町田は、横浜からも近く、移転に無理がない。
少年サッカーが盛んで基盤があり、集客も期待できる。
ということで、非公式に町田市へ打診がありました。92年のことでした。
かなり具体的な話が為されたと聞いています。
一番の問題はスタジアムの問題だったと聞いています。
当時、町田市立陸上競技場は、ぱっと調べられませんが、建てられてそれほど時間が経っておらず、町田市としては改修のコンセンサスを取れなかった。
要は作ったばかりなのに、何でまたお金かけなきゃいけないの?という話。
当時のお金で50億円の費用が必要だった。これは、ゼネコンである佐藤工業が、綿密に計算した数字であったと聞いています。
一番の大きな問題は、トイレの問題だった。
1万5000席の観客を収容するスタジアムにする為には、それ相応のトイレを作らないといけない。
しかし、当時、町田市は、下水道の普及率が非常に低く、現在は、鶴川街道沿いに下水の本管が通っているが、当時はまだ設置されていなかった。
よって、スタジアムの下に大きな貯蔵タンクを掘り、汚水を溜めておく必要があったとのこと。その工事に莫大なお金が必要だったと聞いています。
そのような状況があって、町田市から色よい返事をもらえないフリューゲルスでしたが、Jリーグバブルと言われた開幕当初は、どのクラブも観客が多かった。そのうち、横浜でマリノスを競合してもやっていけると判断した(と聞いています)フリューゲルスは、ホームタウンを横浜市に定め、Jリーグに参入するのでした。。。
当時、発足したのが、「町田にJリーグクラブを誘致する会」です。署名活動など様々なPR活動を行ったそうです。
当時、町田の青年会議所の理事長だったのが、今、AC町田で副理事長をされているH先生です。
サッカー協会の理事長をされていた、東京新聞にも掲載されたS先生や、現AC町田理事長で監督の守屋先生らと活動をされていたのです。
このような、情熱的な方々が、町田サッカー協会、青年会議所、商工会議所、市役所等、かなり全市的に活動されていたと聞いています。
人数で言うと50人くらい?の活動家がいらっしゃったと聞いた記憶があります。すごいですね。今の比じゃあありません。
フリューゲルスの誘致が適わなかった誘致する会ですが、その後も町田にJリーグクラブを作るという情熱はとどまるところを知らない。
「町田にJリーグクラブを実現する会」と名前を変え、当時のフジタ(現:湘南ベルマーレ)や、富士通(現:川崎フロンターレ)、東京ガス(現:FC東京)などにも、町田をホームタウンにJリーグに加盟しないかと声をかけてまわったそうです。いづれも上手くいかなかった。
そこで、誘致の可能性は残しながらも、当時、既に東京都2部リーグに所属していた、FC町田の社会人チームに愛称をつけ、FC町田を育てることによって、Jリーグを目指そうという方向に転換する。そこで発足したのが「FC町田ゼルビア後援会」なのです。
長くなったので、今日は、この辺で。